日記を書くために文学フリマに申し込んだ話

 ある時期から古い文学をよく読むようになった。だいたい大正から戦後昭和あたりまでの、短編小説やら随筆やら評論やらである。

 何のための読書というわけでもないから別に記録もつけず、読みっぱなしにしていたのだが、すると読んだ片端から忘れているような気がする。何のためというわけでなくても読めば何かしらは思うし、そのあたりの文学、つまり「文壇」というものがまだ実際に存在していた時代の文学はあの人がこの人の随筆にひょいと登場したり、この登場人物のモデルがあの作家であったり、ちょいと歩けば文豪に当たったりする。そんなこまごました考えや出会いを書き残しておきたいような気もした。ついでに身の回りの出来事も書いておけば日記になるだろう。書き残したところでどうなるわけでもないのだけれど。

 この「書き残したところでどうなるわけでもない」というのが問題で、日記なんて続いたためしがない。つけていてもある日むなしくなってやめてしまう。字が汚いので読み返す意欲が湧かないというのも無視できない問題だった。今回の日記も三日坊主になるのは目に見えていた。

 そこで私は考えた。そうだ、日記を本にして文学フリマで売ろう。

 

bunfree.net

 

 突然、文学フリマのCMのようになってしまったが、これはそう突飛な発想でもなかった。「書いてもなんにもならない」が日記挫折の一番の原因であれば、「一冊の本にする」という明確な目標は日記継続の原動力になる。本物の出版物のような体裁で印刷すれば、字が汚いという問題(実際大問題であった)も解決する。そして、ここが重要かつ今回の話の都合のいい点なのだが、私は個人で本を作った経験売った経験があり、最低限ではあるが必要な知識を備えている。文章を「原稿」にして原稿を印刷所に持ち込んで完成した本をイベントで販売する、というのは私にとってある意味自然な流れであった。自分用に一冊だけ刷ってもいいのだけれど、どうせ本にするならイベントに出ようじゃないか、というわけだった。

 しかし、無名の一般人の日記が売れるのだろうか?

 この問いに対しては、どうやら近年は日記本ブームが来ているらしいとか、文章のうまい人は実際に売れているらしいとかいった一般論を持ち出して答えることもできそうだが、一般論を抜きにすれば「売れるわけがない」というのが回答になるだろう。私の日記を誰が買うというのか。

「しかしまあ」と私は自分に言った、「とりあえずやってみようじゃないか」

 すると結論は出たのでとりあえずやってみることになった。理屈ではないので議論の余地もないようだった。

 こうして先日、私は「寝台燈」として文学フリマ東京38に申し込んだ。申込数が多くて抽選になるらしい。落選してもとりあえず日記の本は作ってみようかと思っている。