20円日記の計画

 色々な葛藤はさておいて(この葛藤についてもいずれ書きたいがわからない)日記を書いて公開したい気持ちはある。が、冊子にするほどの内容をまとめる気力はない。しかしWeb上で公開もしたくない。

 そこで、とりあえず、ネットプリントという形で日記を出してみたらどうかと思いついた。つまり、私がネットプリントにPDFを登録して、その印刷番号を公開する。ネットプリントはA4一枚白黒片面印刷なら20円。20円払って他人の日記を読んでみたい人がいたら、コンビニのコピー機からプリントしていただく。

 20円払って馬の骨の日記を読みたい人。いるだろうか。それはわからない。だが20円日記というチープさは総合的に見てちょうどよいようにも思える。

 という予定で一応書いているので近々20円日記を出したいです。

あまりにも暇なので、日記を書くしかない

 書くべきことはなく、書く意味もないと思ったので何も書いていなかったが、あまりにも暇なので日記でも書いて脳を働かせなければならない気がした。書くべきことがないなら無理に書かなければいいのだが、SNSの普及によって一億総踊る阿呆時代になった現代では踊らにゃソンソンなような焦燥感に駆られてしまうのだった。これは、現代と私の、両方の悪い点である。別に書いても書かなくても人間はみんな死に、(極めて少数の人を除き)みんな忘れられるのだから、好きに書いて好きに生き恥を晒せばよかろうとも言える。

 最近の生活は文学とゲームの両輪と言ってよい。文学とゲームを絡めた何かをやっているということではなく、読書においては文学作品や文学論を読み、読書以外の趣味ではゲームばっかり遊んでいるという意味である。今はSwitch2で「ぽこ あ ポケモン」をプレイし続けている。文学については今この場では触れたくないのでポケモンの話だけする。

 私が「ぽこ あ ポケモン」を遊んで強く感じたのは、図鑑埋めのために野生ポケモンを捕まえるだけ捕まえてあとはポケモンセンターに預けっぱなしで放っておくような行為は将来的に違法性を問われる可能性があるのではないか、そもそもそのような行為を助長するシステム設計に欠陥があるのではないか、様々なタイプのポケモンをとっかえひっかえ育成してチャンピオンまでの道を邁進するトレーナー(主人公)よりも「格闘ポケモン一筋の空手王」のような人の方がトレーナーとして純粋な姿だったのではないか、ということだった。私はポケモンは赤緑青とスカーレットを知っているだけでアニメも全然見ていないのでそのあたりの設定がどうなっているか知らないが、そのようなことを思った。おわり。

冊子の構想

 先般の文学フリマ東京では、私が以前出した読書日記本について触れてしてくださった方が複数いた。

 私としては、あの本はもう過去のことであり終わった話であり、どちらかというと恥ずかしい思い出と感じていたのだが、褒めてもらえると「そんなに悪くなかったかも?」という気がしだした。(現金である。しかし人生は短いのだから、自惚れられる時には自惚れておいた方がよい)

 それでまた日記を書いてみようかと思った。しかし今や日記を書く習慣はほとんど失われていた。本にしようという強いモチベーションでもない限り日記なんかつける気がしないのであった。

 では本を作るつもりになればいいのであるが、以前のようなちゃんとした本を作るのは時間もお金もかかる。力を入れて作ったからにはしっかり宣伝して売りたくなってしまう。それもやりがいがあると言えばあるのだが疲れる。

 私は今回の文学フリマのためにわざわざレーザープリンタを買っていた。フリーペーパーを作るためではない。原稿を紙で出力して校正作業を行うためである。結論だけ言うと買って大正解だった。(暇だったのでフリーペーパーも作った)

 このプリンタを使って、コピー本を製作したらいいんじゃないかと思った。月刊は無理でも隔月刊か季刊ぐらいの具合で、日記やよしなしごとを薄い冊子にして、送料込み三百円ぐらいで通販したらどうだろう。

 そんなものお金を払って買う人がいるのかというのは妥当な問いである。せめてネットプリントではどうかとか、そもそもブログでいいんじゃないかとか……。しかし紙の本という形でないとどうしても自分がやる気になれない。私としても別に売れるとは信じていない。売れなくても金銭的にはほとんど損をしないわけだ。あとは、やるかどうか、売れない本を実際に作るかどうかだけである。

 まあそんなような空想を弄んで最近は日々を過ごしている。

無愛想であってはいけないのか?(思考遊びにつき結論なし)

 先般の文学フリマ東京42において、私は自身のスタンスおよび性格から、接客行為は必要最低限に留めて基本的にはずっと座って本を読んでいた。

 そのような出店者を「無愛想である」と感じる来場者もいるようだ。私には私なりの考えがあったとはいえ、「うーむ、無愛想に見えるなら、改めなければいけないかな」とちらりと反省した。

 しかし、ふと別の考えが湧いた。
 文学フリマにおいて、そもそも出店者は無愛想であってはいけないのだろうか?

 ちょうど今読み進めている、というかまさに文学フリマで読んでいた『誤謬論入門』という本に、次の一節があった。

“べきである”という規範的な結論は、“べきである”という前提からしか導き出せない。

 「無愛想」な出店者を好ましく思わない人の感情をあえて主張として書き出してみると(※具体的にそのような主張をしている人がいるかは知らない)、「文学フリマの出店者は、無愛想であるべきではない」すなわち「文学フリマの出店者は、愛想よくしているべきである」ということになる。

 これは『誤謬論入門』の言葉を借りれば、「規範的な結論」になると思われる。そして『誤謬論入門』の考え方を使うと、この結論を妥当なものとするには、適切な「“べきである”という前提」が必要である。

 「文学フリマの出店者は、愛想よくしているべきである」という結論を支えるに足る前提とはどのようなものであるか? そもそも、そのような前提が存在するか?(これは反語ではなく純粋な疑問である)

 前提として考えられるのは「店が客に丁寧な態度で接するのは当たり前じゃないか(接するべきである)」というものだろうか。「買ってほしいのなら愛想よくするべきだ」という方向もあるかもしれない。しかしこれは前提かしら? これ自体が結論かしら? これらを前提と言えるかどうか、前提だとして妥当かどうか考えるには時間がないので、このあたりで切り上げることにする。

 ひとまず私が思ったのは、「そういう態度は無愛想だ」という感想ないし主張ないし指摘は正論のように見えるが、また状況によっては正論なのだが、真に妥当かどうか考えてみる余地はあるということである。

 なお、私がここで問題にしているのは個人の好悪ではない。しかし「理屈なんかどうでもいいので、単に私は愛想のいい人から買いたいのだ」という感想ももっともではあろう。

文学フリマ東京42反省(余談)

  • 立ち止まったお客さんに声をかけるのかかけないのか中途半端だった
    • 私は自ブースでずっと『誤謬論入門』という本を読んでいたのだが、誰かが興味を示してくれるとたまに小さい声で「こんにちは……」「(試し読み)どうぞ……」と呟き、生きている人を不気味がらせてしまったかもしれない。
    • 私の本に興味を示してくれているのにこっちが読書しているのは失礼かなと思って、お客さんが見本誌を読んでいる間は『誤謬論入門』をしまってぼんやりしたりしてみたが、相手は「しゃべるでもないしこの人はなんなんだろう……」と思っていたかもしれない。
      • 私も「どうしたらいいのかな」と思っていた。
    • いっそ『誤謬論入門』を読み続けて、質問や会話やお買い上げ等のアクションがあった時のみ行動した方がよかったのではないか。
  • 無理にでもテンションを上げるべきだったかもしれない
    • 慢性的な寝不足の上に当日も普通に寝不足で、元気がなかった。頭が半分ぐらいしか働いておらず、ふわふわしていた。
    • カフェイン飲料ないしエスタロンモカ等を利用して、やや健康を犠牲にしつつ無理やりにでもテンションを上げ、交流に努めた方がよかったかもしれない。
      • しかしながら、気分の高揚による不適切な言動の可能性も高まることを考えると、一概にカフェインを投入すればよかったとも言えない。
  • 『誤謬論入門』の他にもう一冊持っていってもよかったかもしれない
    • 丁寧に議論の筋を追いながら読まなければいけない内容だったので、読んでいると眠くなることがあった。
      • その代わり文学フリマ中に100ページ近く読み進められたので、そこはよかった。
    • 気分転換に軽く読めるものがもう一冊あってもよかった。
  • 次回(があるとして)はいっそ「話しかけないブース」を前面に押し出したらいいのではないか
    • それで滑ったらかなり厳しい絵面になると思われるが、その点についてはどうお考えなのか。
      • 私がただ読書し続けるブースは、私の積読の減少に繋がり、それはそれでよい面があるとも考えられる。
    • Amazonで腐るほど売っている携帯用ブックライトを『八つ墓村』の多治見要蔵のように頭に巻きつけてブースで読書すると、「私は他人とのコミュニケーションに困難を抱えている」というメッセージとともに「私は読書が好きです!」というポジティブなインパクトを与えることができて一石二鳥なのではないか。
      • 規約によりそもそもコスプレは禁止であるし、販売物が横溝正史と何ら関係がないのに横溝作品を彷彿とさせる格好をすることは出店者として誠実な態度とは言いがたいであろう。

文学フリマ東京42御礼&今後について

文学フリマ東京42ありがとうございました

 本日、文学フリマ東京42でした。
 本をお買い上げいただいた方、当ブースにお立ち寄りいただいた方、ありがとうございました!
 おかげさまで『奇蹟と常識 正宗白鳥随想集』は持ち込んだ半分ほどが売れ、『新潮社版「正宗白鳥全集」総索引』は完売となりました。作った本が旅立っていくのは嬉しいことですね。
 以前の文学フリマで出した日記本や、当ブログについてお話ししてくださった方もいて、想像もしていなかったので嬉しいびっくり……。
 突貫で作って机に置いただけのフリーペーパーは十数枚ほど(多分)もらわれていき、まあ読まずにポイでもいいんですけども、お暇潰しぐらいにはなっていると幸いです。

通販は未定です

 というわけで『随想集』はだいたい狙い通り在庫が残ったのですが、こちらを今後どうするかは未定です。何らかの手段で一人でも多くの方にお届けしたいという気持ちはあるのですが、具体的には何も決まっておりません。通販等をお待ちいただいている方がいらっしゃったら申し訳ありません。

総索引は増版するかも

 『総索引』はさすがに5冊も売れないだろうと考えて4冊だけ刷ったら、なんと完売しました。ありがたや。本当にただの索引ですがよろしくお願いします。
 自分で言うのも何ですが、こちらの本はわずかながら資料的価値があると思いますので、増刷するかもしれません。(生々しい話になりますけれども、ページ数が少ない分、1冊あたりの印刷費=私の負担が少なくて済むという事情もあります)

今後について

 現時点では、寝台燈の今後の活動予定は未定です。
 私は関東圏の住人なので、もし次に文学フリマに参加するとしたら11月の「東京43」が一番の選択肢になります。が、秋ごろの世界および身辺の情勢がどうなっているかなーというのを抜きにしても(本当は抜きにできませんが)、文学フリマ自体がやはり自分には合わないイベントかもしれないと感じるところがあり、どうするか決めかねています。
 私は話すのが苦手で、即売会でも積極的な接客はできず、するつもりもありません。これは私がもともとコミックマーケット=コミケ的な同人誌文化(売る側も買う側も対等である、買う側はサッと来てパッと買ってスッと去る人が多い)から来た人間だからでもあります。
 ただ、文学フリマは全体の雰囲気として出店者と来場者が積極的に交流するイベントなのですよね。そして、「そらコミケにはコミケの文化があるでしょうけども、文学フリマはコミケじゃないのよ」と言われたらおっしゃる通りで……。
 文学フリマ全体に「出店者はどんどん接客するもの」という雰囲気があり、お客さんもそれを期待して来ている方が多い、ということだと、文学フリマがそもそも自分の肌には合わないのかなという思いが強くなってきました。
 かといって、私の作りたい本がコミケ向きであるとも思えず、ZINEフェスも違いそうだし、他に適当な場が思い当たらないのですが。

 そのような感じで、予定は未定となっております。何か決まりましたら、Xなりこちらのブログなりでお知らせいたします。

(あらためてお知らせ)文学フリマ東京42に出店します

 その日が迫ってきましたのであらためて……。

 5月4日(月祝)開催の文学フリマ東京42に「寝台燈」として出店します。

 販売するのは『奇蹟と常識 正宗白鳥随想集』『新潮社版「正宗白鳥全集」総索引』の2冊です。

 メインが随想集という形になっておりますが、ブースの配置は「評論・研究」ジャンル、場所が南1・2ホール(1階)のR-45なのでご注意ください。

 Xアカウントをお持ちの方は、 https://x.com/nmkmary でも最新情報をご覧いただけます。(こちらの方がブログより情報が早いです)

お品書きとWebカタログ

お品書き

c.bunfree.net

サンプル

『奇蹟と常識 正宗白鳥随想集』表紙
『奇蹟と常識 正宗白鳥随想集』本文
本文サンプル(実物は印字がもう少し濃いめです)

ブースの場所

ブースは「南1・2ホール R-45」です

 当日はうっかり作った名刺も持っていく予定です。よろしくお願いいたします。