先般の文学フリマ東京42において、私は自身のスタンスおよび性格から、接客行為は必要最低限に留めて基本的にはずっと座って本を読んでいた。
そのような出店者を「無愛想である」と感じる来場者もいるようだ。私には私なりの考えがあったとはいえ、「うーむ、無愛想に見えるなら、改めなければいけないかな」とちらりと反省した。
しかし、ふと別の考えが湧いた。
文学フリマにおいて、そもそも出店者は無愛想であってはいけないのだろうか?
ちょうど今読み進めている、というかまさに文学フリマで読んでいた『誤謬論入門』という本に、次の一節があった。
“べきである”という規範的な結論は、“べきである”という前提からしか導き出せない。
「無愛想」な出店者を好ましく思わない人の感情をあえて主張として書き出してみると(※具体的にそのような主張をしている人がいるかは知らない)、「文学フリマの出店者は、無愛想であるべきではない」すなわち「文学フリマの出店者は、愛想よくしているべきである」ということになる。
これは『誤謬論入門』の言葉を借りれば、「規範的な結論」になると思われる。そして『誤謬論入門』の考え方を使うと、この結論を妥当なものとするには、適切な「“べきである”という前提」が必要である。
「文学フリマの出店者は、愛想よくしているべきである」という結論を支えるに足る前提とはどのようなものであるか? そもそも、そのような前提が存在するか?(これは反語ではなく純粋な疑問である)
前提として考えられるのは「店が客に丁寧な態度で接するのは当たり前じゃないか(接するべきである)」というものだろうか。「買ってほしいのなら愛想よくするべきだ」という方向もあるかもしれない。しかしこれは前提かしら? これ自体が結論かしら? これらを前提と言えるかどうか、前提だとして妥当かどうか考えるには時間がないので、このあたりで切り上げることにする。
ひとまず私が思ったのは、「そういう態度は無愛想だ」という感想ないし主張ないし指摘は正論のように見えるが、また状況によっては正論なのだが、真に妥当かどうか考えてみる余地はあるということである。
なお、私がここで問題にしているのは個人の好悪ではない。しかし「理屈なんかどうでもいいので、単に私は愛想のいい人から買いたいのだ」という感想ももっともではあろう。