言葉の復讐など

 文学フリマ終了後はこのブログの存在を忘れる予定なので、せめて今のうちだけでも更新しておこうと思った。思ったが書くべきことは特にないようだった。しかし書きたいことがあるような気もした。やっぱり書くほどのことでもないような気もした。

 書かなければゼロである。ブログを書けば何かしら生まれるのだから(でも本当かしら?)、書かないよりは書いた方がよい。だが、実は、インターネットには書かないほうがいいこともあるのではないか。この「こと」は事柄でもあり場合でもある。反応をもらえてその時は心が満たされても、書けば書くほど実は自分が磨り減っているような、そういう事柄や場合があるのではないだろうか。

 この思いを私はうまく言語化できない。先日手にした『日本の名随筆 別巻28 日記』という本に、もしかしたらこれが近いかもしれないと感じた一節があった。串田孫一の「日記について」という随筆である。

 自分をいいように日記の中へ書き込むことをしていた私は、逆に、自分をひどく扱うこともやっている場合がある。そして時たま、小さな、書くほどのこともないような悩みを書き出すと、それを悩みとして書くことが面白くなってしまって、悩みをふくらませ、粉飾を思う存分にほどこし、つまり日記の中で非常に悲惨な自分を創作してしまって、それを自分と合体させているようなこともある。


(『日本の名随筆 別巻28 日記』p17)

 以上の文章が書かれたのはブログや SNS どころかインターネットすら登場していない時代のことだから、ここで言う「日記」とはもちろん個人が自分のためだけにつける日記のことである。だが誰でも日常や心情を簡単に公開できてしまう今、この一節は書かれた当時とはまた別の、そしてもっと重要な意味を持つように私には感じられた。

 忠告めいたことを書くようでは、自分もいよいよ年を取ったなと思う。別に忠告なんか誰も聞きはしないだろうとも思う。私自身が頑なで(今でも頑なだが以前はもっと頑なで)、他人の忠告に耳を傾けようとしなかった。だから何を書いても無駄かもしれないけれども、書いておこう。言葉は復讐する。好き放題に振り回したり、弄んだりすれば、言葉はあとで必ず復讐する。自分自身にも言葉にも恥じない、言葉の使い方をしなくてはならない。しかし、弄ぶのと遊ぶのは紙一重で、遊ぶのは楽しいのだけれど……。


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 私はインターネットで読めないような文章を読みたいと思っている。重くて、深くて、遅い言葉を求めている。文学フリマではそういう文章に出会えるのだろうか。


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 これは、春の山です。