特になし

 別に「自分の本を出したい!」「ライターになりたい!」「いろんな人と交流したい!」といった熱意がなくても文学フリマ東京はなんとかなったしそれなりに楽しかったというような話を書きたいのだが、熱意がないためなかなか書くには至らないのであった。

 熱意がないのに一人で本を作ってイベントに出店までしたのですか、と言われるかもしれない。そうです、としか言いようがない。私には少なくとも燃え上がるような情熱はない。あるいは燃え上がるような感情だけが熱意ではないのだと、そう好意的に捉えることも可能であるかもしれない。しかしそれは私自身には判断のつかないことである。

文学フリマ東京38ありがとうございました

 昨日は文学フリマ東京38お疲れ様でした、そしてありがとうございました。

 当ブースは予想外に多くの方にお立ち寄りいただき、持ち込んだ『不在と読書』十九冊(十八冊+試し読み用一冊)全て旅立つという嬉しい結果になりました(十九という中途半端な数なのは、二十冊を宅配搬入してそのうち一冊は提出用の見本誌にしたためです)。完売後にブースにいらっしゃった方もいた模様で、申し訳ありません。感覚的には、あと十冊は難しかったかもしれないがあと五冊は買ってもらうことができたかもしれない、と感じました。とはいえ会場に約二十冊持っていくのも自分としてはバクチでしたので、後悔はしていません。

 ネットに知り合いがたくさんいるわけでもない、無名の素人の日記が十九人もの方にお買い上げいただいた、さらに通販でもご注文をいただいているので全部で二十人以上の方の手元に渡った(渡ろうとしている)、自分でもびっくりです。全然売れなくてもなんとか楽しむつもりではいましたが、売れるとやっぱり嬉しいですね。お手に取っていただいたのは見た目の力も大きいと思いますので、中身について真価が問われる(?)のはこれからというか、どうかしらねえ、という感じですが……。ひとまず皆様に一時の楽しみを提供できましたら幸いです。

 レポートは気が向いたらあとで書くとして、まずはご報告とお礼まで。

明日の文学フリマ東京38に出店します

 気がつくと明日でした。日記の本を売ります。よろしくお願いします。

 一人参加のため、当日は離席=留守にする時間帯が出てきてしまいます。離席状況等につきましては X の方で逐一お知らせいたします。

 →https://x.com/nmkmary

 とりあえず、開場直後に数分ほど離席する予定です(どうしても行きたいブースが一箇所あり……)。その後は混雑具合など見つつ、どこかのタイミングで買い物&見物のため席を外すことになるかなと思います。

 ではまた明日……?

文学フリマ東京38新刊の通販を始めます

 5月19日開催の文学フリマ東京38で販売する日記本『不在と読書』の通販を行います。

 Google フォームによる自家通販です。匿名配送には対応しておりません。発送は5月19日以降となります。また、通販は予告なく休止する可能性があります。

 以下のリンクからどうぞ:

forms.gle

 なお、文学フリマでは特別価格の1,000円で販売いたします。当日会場にいらっしゃるご予定の方は、会場でお求めいただいた方がお得です。*1

 既存プラットフォームを利用した通販の方が利便性が高いとは思うのですが、直接お渡しするのに近い感覚で販売したいというわがままにより自家通販とさせていただきました。ご購入希望の方にはお手数をおかけいたしますが、ご容赦ください。

本の内容

 『不在と読書』は地味な凡人の地味な日記です。読書の話題が多いため(他の話題がないとも言う)、結果的に読書日記となっています。内容紹介を兼ねて、あらためてお品書きを貼っておきます。

 文学フリマ東京38の Web カタログでは内容紹介の他、「まえがき」を全文掲載しています。

c.bunfree.net

 本文サンプルは以下に掲載しています。

shindai-toh.hatenablog.jp

 よろしくお願いいたします。

*1:会場価格と通販価格にちょっと開きがありますが、1,000円は仮に全て売れても赤字確定の特別価格なのでお許しを……。

ここ数日

 相変わらず堀辰雄を読んでいる。つい『堀辰雄事典』まで買い求めてしまった。一つ一つの項目が小さな堀辰雄論であるのと同時に、誰がどの論考でどのように論じた、という部分まで書いてあるのがいい。まさに事典だ。

bensei.jp

 堀辰雄繋がりで、件の(というのはつまり、うちに全巻揃っている)彌生書房「現代の随想」シリーズから『福永武彦集』を読み始めた。福永武彦堀辰雄の弟子とまで言っていいのかはわからないが、堀辰雄を慕っていた年下の文人たちの一人。筑摩書房版『堀辰雄全集』の編輯に従事した人物でもある。その随想文が良いのは当然としても、文体や考え方もわりと好きで嬉しい(良いには良いのだろうが自分は好きじゃないな、という場合もあるわけで)。

 この『現代の随想10 福永武彦集』、内容とは別のところで面白いのが、一冊の本の中に新仮名遣いの文章と旧仮名遣いの文章が混じっている。底本の表記に従ったためのようだ。現代の出版物もこのくらいおおらかにやってくれたらいいと思うのだが……難しいのかなあ。難しいのだろうなあ。旧字はともかく、旧仮名はそんなに身構えるほど難しくないよと言いたいのだが、敬遠されてしまうんだろうなあ。

四月総括

 四月は堀辰雄ばかり読んでいた。そんな気がする。四月のいつごろから読んでいたのか? もしかしたら三月だったのか?(そうではなかったと思うけれど) そのあたりは記憶の靄の向こうにありはっきりしない。はっきりさせるために日記を書いているのではないのか。日記をめくればすぐにわかるではないか。そう問う向きもあろうがはっきりさせなくても特に困らないので日記は参照しない。四月は堀辰雄の月だったと思う。

 私は飽きっぽくて気分屋だから、断定は避けたいが、どうやら堀辰雄に惚れ込んでしまったのではないかと判断しても間違いではないと言えないこともないようだ。

www.chikumashobo.co.jp

 筑摩書房版の堀辰雄全集(思いがけず私の宝物になった)を買ったのは、気になっていた時にたまたま安い出物を見つけたからだけれども、そもそも気になっていた理由は彌生書房の「現代の随想」シリーズの『堀辰雄集』を読んで良いと思ったからで、『堀辰雄集』を手に取ったきっかけは龜鳴屋という小さな版元の『高祖保随筆集 庭柯のうぐひす』という美しい本に堀辰雄の名が出ていたから、『堀辰雄集』をさっと手に取ることができた理由は家に「現代の随想」が全巻揃っていたからで、なぜ「現代の随想」が揃っていたかといえば去年の十二月に訪れた京都の古書店で『井伏鱒二集』を買い求め、内容もさることながら造本を気に入ってついつい全巻揃いを通販で注文してしまったためだった。このような鎖のどれか一つが欠けても私は堀辰雄を読まないまま一生を終えていたのかもしれないと考えると怖いような気がする。

 四月のまとめをするつもりだったが、四月は十二月からずっと続いていて区切るのが難しいことがわかった。

七月十三日に向けて庄野潤三を読みたい

 今月十九日の文学フリマもまだなのに七月の話かいな、というところだが七月十三日に向けて庄野潤三を読みたいのである。

 神奈川近代文学館で六月八日から「没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!」が開催される。(リアルタイムで接してきたわけではないので結構昔の方という印象だった、没後まだ十五年しか経っていないことにびっくり。長生きされたのだ)

 そして七月十三日には、庄野潤三のご長女である今村夏子さんと、地味な名著(もちろん庄野潤三作品も含まれている)をこつこつ出版し続ける夏葉社の島田潤一郎氏とのトークイベントが行われる。

 こちらに申し込んだので、それまでに庄野潤三をもう少し読んでおきたいのだった。

 庄野潤三の、多分前期〜中期ということになるのかしら、家族小説を読み慣れた人だと庄野潤三のご長女といえば小説の中の「○子」(私はその頃の小説はほとんど読んでいないので具体的な名前はわからないのだけど)がこの夏子さんなんだなあという感慨を抱くのだろうと思うが、私がもっぱら親しんでいるのは後期の日記とも随筆ともつかぬ家族小説、家族や知人が実名で登場する方の作品だから、あの夏子さんにお会いできるのだなあという感慨が強い。「ハイケイ 足柄山からこんにちは。」の夏子さん。

 コロナ禍の、何もかも殺伐として辛い折に庄野潤三の作品には本当に救われた。当時は老夫婦の平穏な日常を淡々と書いた文章とのみ思っていたが、生きていて楽しいこと嬉しいことばかりのはずがない。作家は強靭な意志をもって、自分の書きたいことだけを書き続けたのだとだんだんわかってきた。読者がその世界に安心して滞在していられるのは庄野潤三の凄みのゆえである。だがそんなことが全然わからなくても、庄野潤三の家族小説はいい。

 庄野潤三の著作はぽつぽつ集めていくつもりであったけれども、これを機に一気に仕入れてしまおうかしらなどと考えるのだった。